看過できない発言
さて、前置きが長くなってしまったのだが、今回、論じたいことは別にある。
この轟そら氏の件から派生した、第三者の発言について。
ピクシブ(pixiv)の社長・片桐氏のツイッターにおける発言である。キーワード「pixiv運営発言」といったほうがわかりやすいだろうか。彼もこのトレス騒動をリアルタイムで見守り、それに対する意見をツイッターを使い発言していたようだ。
http://fuckpixv.blog88.fc2.com/
発言をまとめたサイト*1がこちら。
未見の方は出来るだけ上記サイトを読んで頂きたいが、この流れを簡単に説明するとこうなる。
- トレス騒動に関して、不用意(と思われる)発言をする
- 周囲からツッコミが入り、一連の発言に対し誤解であることを釈明する
- 一連の発言に対して、すべてまとめて誤解であることを謝罪し、静かになる
という感じだろうか。いくつかの発言は、真意を説明し、また訂正・謝罪*2を行っているのだが、トレスに直接的に言及しているものとはやや別のところで、個人的にどうしても看過できない発言がひとつある。
ゼロからオリジナルで描くことの意味自体が薄れているし、
そうゆうことではなくて最終的なアウトプットが良ければいいのでは、と思います。
http://twitter.com/tarbrick/status/3692222149
この部分。確かにこれだけのポストモダンの世の中になってしまったら、あらゆる表現はすでに誰かがやってしまっており、厳密な意味でのオリジナルを作り出すのは、難しいことかも知れない。それを彼は「完全なオリジナル」や「ゼロからのオリジナル」と表現し「難しい」と結論づけている…これはおおむね理解できる。
しかし「意味合いが薄れている」というのは果たして本当なのだろうか。もしオリジナルを作ることがたいへん難しく、可能性がゼロに近いのだとすれば、なおさらオリジナルを創り出すことの「意味合い」は強くなり、大きな価値を持つのではないか。
たいへん残念なことに、その後、この発言については一切の追補・訂正がない。
会話の流れにおいて、第三者から問いかけがなされているにも関わらず、である。
この発言を彼の真意として
クリエイターは、出来るだけ自分の作品が「よりオリジナルに近い」ものになるように、日々努力をし、筆を走らせていると思う。もちろん、既存の要素の組み合わせ・モチーフのアレンジをすることも重要だろう。でも根底に「自分にしか引けない線がある」「自分にしか描けない絵がある」という信念があるからこそ、自らの手を動かしている。もし自分ではない誰かが、自分とまったく同じ作品を生み出せるのであれば、クリエイターとしてのアイデンティティは成立しない。そんなオリジナルを作ることの「意味が薄い」とは一体?
クリエイターを支援する立場の人間は、その信念にとことん一緒につきあうべきではないか。どうして一緒に信じてやれないんだ。その信念が、たとえそれが実現の可能性が限りなく低い、幻想に近いものだったとしても。
少なくとも僕は今までそうしてきた。そしてこれからもずっと、その立場を貫くだろう。
ピクシブを代表する彼のこの発言は、クリエイターに対する敬意が感じられない。クリエイターを支援すべき立場の人間のするべき発言として、到底受け入れられない。
創作活動に真摯に取り組むクリエイターたちに対して、あまりに失礼すぎる発言ではないか?
ピクシブにまつわる話題については、これまで公の場では言及を避けてきた。その理由は言うまでもあるまい。だが、今回に関してはどうしても言わせて頂きたかった。彼の発言から汲み取れる真意は、僕が今まで持ち続けていた信念と明らかに相容れないものである。本当は議論をしてみたいところだが、おそらくそれは叶わないだろう。ゆえにここで、1意見として、反論を述べさせて頂いた。