ギアがニュートラルなら、クルマは走らない

ごく一部で話題のコミックギア…のっけからこの記事か(笑)。

クローズドな場ではちょこちょこ書いていたんですが、やはり読まないでいろいろ書くのもどうかなぁと思い、買ってきました。仕事の合間に全部読みました。自分は仕事柄、マンガ読むの早いほうなんですが、15分くらいで全部読めてしまいましたよ。ホントはもうちょっとかかってるかも知れませんけど、体感的にはそのくらいの時間。

と、いうわけで、書きたいことはいろいろあるんですが、いくつかに絞って書いてみようと思います。とりあえずコンセプトについては今はいいや。俺は作家ではないので、あくまで作家と一緒に仕事をする誰か、という立場で真っ先に見てしまうわけですけれどもね。

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作家が自分たちで企画した雑誌! という同人誌的な特徴を前面に出すのは百歩譲って許すとしよう。でも、それって「放任する」ということとは違うんじゃないか。出版社はノーコントロールのフリをして、最低限のコントロールをすべき。しかし、それがこの雑誌には、一切感じられない。

「頑張ってたくさん描くこと」はマンガの面白さの本質とはまったく関係がない。どの作品も50ページ超。それなりに作家は頑張ったのだろう。でも、頑張ったベクトルが完全に間違っているように思う。どの作品も、総じてページ数のわりに話が進まない。厳しい言い方をすれば、薄い。
俺なら、この50ページ超のネームを作家が出してきたらたぶんこう言う。「このネーム32Pにまとめてみようか」ってね。

雑誌で、ページをもらえることがいかに大変なことか。壮絶なネームコンペを経て、ようやく勝ち取る掲載枠。でもそれは読み切りの24ページ……といった、どこの雑誌でもありうる日常の光景が、ここにはない。だからたくさん描いてしまう。この、作家の視点からすると簡単に陥りがちなこのミスを、作家でない第三者の誰かが、どうして指摘することがなかったのか。
少なくとも、見開き2回続いたら、俺は真意を確認する。そういうセオリーから外れた行為をするからには、何かしらの意図が必要だ。それも読者にはっきりとわかる、印象的なものが。でも、この表現に俺はそれを感じることが出来なかった。

表2の部分には、こんなことが書いてあった。
「読みやすさと登場キャラクターの魅力です。読むことが面倒であったり、疲れたりしないマンガであること。」


と。確かに、読みやすくはあった。でもこれは、たとえば文章コンテンツにおいて、
「大きな文字を使って、1ページあたりの文字数を少なくしました。難しい漢字も出来るだけ使わないようにしました。」っていうのと、同義のものだろう。「読みやすさ」の意味を、誤解している。具体的な指摘は長くなるのでここでは控えるけれども、さきほど指摘した見開き2回連続の例を筆頭に、各所に見受けられる。これが「マンガに関する技術や知識を共有でき、ネームの回し読みなども全員で行」った、明白な結果なのだろう。
それが良かったのか悪かったのか。まあ、言うまでもないですよね。

しかし、読む前の懸念がこうもばっちり当てはまってしまうのはたいへん怖い。結論として「やっぱり編集者は必要だわ」ということかな。

ところで、コミックナタリーの記事で、


「打ち合わせやネームチェックは、編集部がしっかりやっています。」
「作家目線に寄り過ぎていないかどうか、ニュートラルな視線で目を光らせていく」


と、あったんですが、すいませんまったく信じられません。
っていうか、トビラから作家名が抜け落ちてるの気づかないとか、どんな校正してるの??

……あ、ごめんなさい。さっきの結論撤回します。こう言い換えさせてください。


「仕事する編集者は必要だわ」

って。